建築的甘味

ただ、たまに感じる甘味に惹かれて生きています。

型にはまる

日本の河川敷で拾った石を、ドイツのどこかに置いたらその石はどうなるんだろうと考えていました。

日本で拾った石は、ドイツに置いてもずっと日本の石なんでしょうか?

僕がその石をずっと見てる間は日本の石だけれど、目を離してドイツの石と日本の石がごっちゃになってどれかわからなくなったら、日本の石はドイツの石になるんでしょうか?

また、僕はこの石が日本の石だと知っているけれど、何も知らない人から見ればこの石はドイツにある石だと思うんでしょうか?

 

 

ゲーリーグッゲンハイム美術館が急に京都の町に現れても、最初は批判されるだろうけれど結局は京都の一部になると思います。

異物感が凄くても時間がたてばその風土に合わせてソフトに浸透していくものだと思う。

日本の石も、時間がたてばドイツの石になる。

環境に合わせて見えないところから変化していくんだろう。

 

ミニマムデザインなんて個人的には特にそうだと思っている。

四角で白い箱のような家は、一見、場所を選ばなさそうだけれど、そういう建築こそ一番場所に影響されると思う。

石と同じように、それらから得られる情報量が少ないと外部に依存せざるを得ない。

特に四角い箱は周りの環境と合わせて一つの建築になると思う。

砂漠に置かれた四角い箱と草原に置かれた四角い箱に住んだ場合、その家から感じ取れる印象は絶対違うものになるはず。

印象から得られる感情が、空間、建築そのもの。

だから、京都のグッゲンハイム美術館も最初は批判があったとしても、時間がたてば馴染む可能性がある。

 

また、ある建築歴史家がサヴォア邸はあの敷地にはもったいないと批判していたけれど、僕はあの敷地でしか得られないものがあると思う。

もっとも、他のものを作ったとしてもそれは言えることだろうけれど。