今更なにを。
新人戦の提出が終わりました。
内容については、また新人戦の期間が終わり次第まとめようと思います。
ただ、自分のもどかしさを吐き出すための記事です。
感情の赴くままに文字をうってるので、同じ言葉の繰り返しかもしれません。
誰かに見せるためではなくて、見返すための記事に近いです。
同じ学科の先輩は入選し、また、クラスの友達は質の高い作品を提出している中で、僕は提出したものの結果が見えているような、人に見せるほどのものではない段階で提出してしまいました。
数カ月の期間ではありましたが、もう少し根を詰めた日々を送っていたらと。
今が8月の7日ですから、ちょうど10日前に形をリセットし、またエスキスすることにしました。
当然、短期間ですからCGやらは急いでしなくてはなりませんが、僕はそれほど切羽詰まったような感じにはならず、のらりくらりと過ごし、結果こうです。
情けない。
10日目にやり直すことに決めたのは、最終的に導き出したものと比較すると悔いはありませんが、でもやはり、そうなったからにはそれなりの覚悟をもたなくてはならなかった。
新人戦がすべてではないと思っていますが、でもやはり、初めての機会でこうなったのは自分の力量不足以前に意識の問題だなと思いました。
オープンデスクに行ってる事務所にも長期の休みをもらいましたし、担当の先生にもたくさん迷惑をかけたのに、このざまです。
もうどうにもなりませんが、せめて清々しい気持ちで終わりたかった。
新人戦の提出が終わり、家についてすぐ寝たんですが、夢で2度、新人戦の作品を仕上げてる自分の姿を見ました。
悔いしかないんですね。悔しい。
新人戦の期間にとったメモ、スケッチです。
勿論、新人戦に関連したものばかりではないですが、本のまとめやエスキスなど。
血となり肉となる...ではありませんが、今思えば得られることが多かったのも事実です。
自分が掲げたいテーマも見つかりましたし、知らない考えに出会うこともできた。
前述しましたが、何も新人戦だけではないんです。
悔しいですが、過ぎ去ったことです。
そう自分に言い聞かせ、次のコンペに向けて悔いなく行動していきたい。
案は10案以上出ましたが、重ねるにつれ良くなったのも事実です。
これは本当に自分をほめたいと思います。
心機一転、頑張ります。
ああああああああああ悔しいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
型にはまる
日本の河川敷で拾った石を、ドイツのどこかに置いたらその石はどうなるんだろうと考えていました。
日本で拾った石は、ドイツに置いてもずっと日本の石なんでしょうか?
僕がその石をずっと見てる間は日本の石だけれど、目を離してドイツの石と日本の石がごっちゃになってどれかわからなくなったら、日本の石はドイツの石になるんでしょうか?
また、僕はこの石が日本の石だと知っているけれど、何も知らない人から見ればこの石はドイツにある石だと思うんでしょうか?
ゲーリーのグッゲンハイム美術館が急に京都の町に現れても、最初は批判されるだろうけれど結局は京都の一部になると思います。
異物感が凄くても時間がたてばその風土に合わせてソフトに浸透していくものだと思う。
日本の石も、時間がたてばドイツの石になる。
環境に合わせて見えないところから変化していくんだろう。
ミニマムデザインなんて個人的には特にそうだと思っている。
四角で白い箱のような家は、一見、場所を選ばなさそうだけれど、そういう建築こそ一番場所に影響されると思う。
石と同じように、それらから得られる情報量が少ないと外部に依存せざるを得ない。
特に四角い箱は周りの環境と合わせて一つの建築になると思う。
砂漠に置かれた四角い箱と草原に置かれた四角い箱に住んだ場合、その家から感じ取れる印象は絶対違うものになるはず。
印象から得られる感情が、空間、建築そのもの。
だから、京都のグッゲンハイム美術館も最初は批判があったとしても、時間がたてば馴染む可能性がある。
また、ある建築歴史家がサヴォア邸はあの敷地にはもったいないと批判していたけれど、僕はあの敷地でしか得られないものがあると思う。
もっとも、他のものを作ったとしてもそれは言えることだろうけれど。
秩序?
数か月前、校内の講評会で「君が設計したものには秩序がない」と言われた。
秩序とは何だろう?
藤森さんは秩序とは自然から出来たといった。
藤本さんは秩序を森から見出した。
各々の建築家は、秩序を見出している。
コルビュジェは秩序に例外を設けるのが上手いらしい。
規則正しく並べられた柱をずらすことに長けていたと。
角柱角柱円柱角柱...傾いた柱...
混沌ではいけないのだろうか?
混沌とした空間、混乱した空間?
先生は、秩序がないといった後に、秩序が無いと芸術だとも言った。
芸術は秩序がない とは言わないが、秩序がないのは芸術の類になるということだろう。
決まりの中で展開していくのが建築なんだろう。
僕があの作品の中で秩序を見出せなかったのは、秩序は完成から見出すものではなくて完成を形成するものだと理解した。
その秩序さえしっかりしていれば、一見、混沌と、カオスとなっていたとしても、それは秩序づいた建築になるのではないか?
人の顔がまるで顔じゃないし、それ以外もよくわからない。
ただあれは、ピカソが自分で見出した秩序によって描かれているから混沌としていてもしっくりくるんだろう。
ずいぶん前に暗幕のゲルニカという本を少しだけ読んだ。
筆者は、そのゲルニカに心を奪われたらしい。
僕は本の数ページしか読んでいないからまだわからないけれど、僕だったら規則正しいものよりちょっとカオスなもののほうが感情を動かされる。
ただカオスだけじゃなくて、小さく秩序があるような。
あぁー
カオスな空間のほうが面白いのかもしれない。
217 田根剛 レクチャー感想
昨日、大阪のグランフロントで行われた田根剛さんによるレクチャーに参加してきました。
田根さんの作品についてはエストニア国立博物館と国立競技場案だけしか知らず、また田根さんに関する本も見たことがなかったのでどんな方なんだろうかと楽しみにしていました。
田根さんは「場所の記憶」を大事にしており、エストニア国立博物館を例に挙げますと、この博物館は今は使われていない滑走路の延長線上にあり、その滑走路はソ連時代に使われていた、いわば負の遺産というわけです。
この「場所の記憶」によってエストニア国立博物館が完成したわけです。
2016年に完成し、博物館という役割だけでなく結婚式やエストニアの独立宣言から100周年の催しもここで行われたそうです。
負の遺産を乗り越えたきっかけとなったのがこの博物館というわけですね。
そして、一番の驚きがこれが26歳の時の案で処女作だったということ。
凄い・・・!
そういえば、前々回の藤本壮介さんのレクチャーでも場所の記憶と似た単語を聞いたような...
講演会やレクチャーに参加すると新しい発見があるのでいいですね
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